tomoの徒然ブログ

法律系の仕事に就く筆者が、法律かいろいろなことについてそれなりに書く感じ。

長谷部恭男ファンの妄言 1 「リベラル・デモクラシーの規定にあるもの(憲法学のフロンティア)」

1 きっかけは些細
 唐突だが、私は学生時代、長谷部恭男にはまっていた。長谷部恭男とは、東大のロースクールの学長を務めた人で、一般の人には、NHKの不祥事の際、副会長とともにお詫び番組に出演した人、あるいは、爆笑問題の番組に出てた人、といったほうがわかりやすいかもしれない。
 とにかく、私は長谷部恭男のファンであり、ある種、マニアといっても良いかもしれない。
 なにしろ、実務につくまで、彼の書いた論文は国立国会図書館に行ってまでして読み漁り、単独著作はもとより、執筆者の一人として参加していた本は、一時期まですべて所有していたくらいだから(笑)

 そんなわけで、私の部屋には今も長谷部恭男の本が数多く眠っている。

 今日、なんとなく部屋を片付けたらそんな私のコレクターアイテムの一部が発掘されて懐かしくて一部読み直してみた。

 そして、せっかく読んだのだから(?)、何か書こうと思って、このブログを記しているわけである。

 とはいえ、私は長谷部恭男が好きなだけで研究者でもなく、彼の学説を適切に論述できる力も無い。
 なによりそんなに時間も無いので(笑)、著作のうちの一部についてちょっと論じてみようと思う。

 今回対象とするのは、

 「リベラル・デモクラシーの基底にあるもの」「憲法学のフロンティア(岩波書店出版)収録」である(以下、「本稿」という)。

 選んだ理由は、論文自体が学生向けであるから比較的容易であること(だからといってわかりやすいわけではないが)と長谷部の考え方がよくわかる論考だからである。


2 厨二病気味な私
 厨二病の意味は、調べてもらうとして(笑)、私は、結構「国家は何で存在するんだ?」とまじめに考えてしまう学生だった。
 
 そんな学生だったので、憲法の講義はものすごく興味があった。

 しかし、である。

 長谷部以前に読んだすべての憲法の教科書は、「人権」と「国家」の存在を前提として論じられていた。これは、かの有名な芦部先生も同じである。
 
 これには面食らった。

 私が始めて芦部先生の本を読み終わったとき最初に思ったのは

 「説明途中過ぎない!?」

 という印象である。

 私が知りたかったのは、なぜ国家の存在が正当化されるのか、どうして人は人権を持っているのかであって、それらを所与の前提としてどのようにそれらはあるべきかを論じるものではなかった。

 もっと何とかならないのか、と思っていろいろ憲法の本を読み出し、そして、長谷部恭男に出会ったのである。


3 そこが知りたかった
 長谷部恭男は国家の存在を前提としない。もっというと、人権の存在すらも前提としない(少し語弊があるかもしれないが)。

 長谷部恭男は、どうしてそれらがあるかを考え、一定の理由を提示する。

 その理由は、ものすごく大雑把に言えば

 「国家も人権もあった方が人が生きていくのに好都合だから」

 という本当にぶっちゃけたものである。

 私は、そのあまりの当たり前すぎに度肝が抜かれたが、長谷部恭男は、経済学や功利主義などの哲学と近代立憲主義の歴史から、この当たり前のことをきちっと論証している。

 そのなんともいさぎよい(?)姿に私はしびれて、あこがれたわけである(笑)


4 本稿の要
 本稿は、リベラル・デモクラシーという概念の説明を通して、国家と人権の存在理由について長谷部恭男の考え方を示すものである。

 結論から言えば、長谷部恭男の提示する国家の存在理由は、

 「公共財の提供」と「調整問題の解決」の2点であり

 憲法が人権を保障する理由は、

 「切り札としての人権」を守るためと、「民主的政治過程に必要な公共空間(自由な報道など)」を維持するためという2点にある。

 そして、これらの制度を作ったのは、それぞれの個人的嗜好はとりあえずおいといて、いろんな人間が同じ地域に住むために必要なことだけを決めて、それ以上個人的なことには口を出さないというリベラル・デモクラシーを守るためである。

 実は、これだけで長谷部恭男の憲法学の大部分を説明したことになったりする(もちろん、ものすごく大雑把だけど)。

 もちろんこれだけでは意味がわからないとは思うが、重要なキーワードは全部出ている。

 ものすごく大雑把に話そう。

 たとえば、ある国で、カトリックとプロテスタントのうち、どちらか片方以外については宗教として認めないという法律を作ることになったとしよう。

 どうなるか。

 答えは、殺し合いである。実際、かつての宗教戦争では多くの人間が死亡している。

 どちらも自分が正しいと思っているし、何より、宗教はその人にとって生きる指針である。これを禁止されるのであるから、命をかけて争うというのはわからない話でもない。

 そういう状態にならないめには、個人が私的にどのように生きるかについては関与しないほうがいい。勝手気ままに自由に生きさせておけばとりあえず殺しあう必要は無い。

 とはいえ。

 お互いが勝手気ままに生きていたら、それはそれで困る(この辺は日本人にはわかりやすいと思う)。

 困るからルールを作って、ルールを執行する機関を作る。
 
 それが国家である(ちなみに、この論理が社会契約論でもある)。

 もともと国家ができたのは上に述べた不都合を解消するためなのだから、それ以上の権力を持たせる必要が無い。というか、権力は常に腐敗する。

 そういうわけで、国家の活動できる範囲に関しては、そもそもの国家の目的(これが正当性でもある)によって制限されるわけである。

 長谷部恭男はこの点を指摘しているに過ぎない。


5 まとめ
 以上、本当にざっくりとまとめてみた。

 久しぶりに憲法について考えたこともあってちょっと面白かった部分もある。

 もし、私に長谷部恭男の論考について解説してほしいという奇特な人がいれば、リクエストをいただければ、私が今手元に持っている範囲の本であれば解説してみたいと思う。

 まあ、そんな人はいないでしょうが(笑)、気が向いたらまたやってみたいと思う。